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風のように 9月5日通信

4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」 5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。   イザヤ35:4~5

34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。

35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。

マルコによる福音書7:34~ 35

説教要旨

新型コロナウィルス感染がなかなか止まらず、近隣の小学校でも、保育園でも児童に感染者が出ているというところで、学校、私たちの幼稚園は二学期が始めました。正直、強い緊張を覚えています。

自分がいつ感染しても不思議でないこと、感染しても病院に入れないかもしない、死さえ覚悟しなければいけないと今まで体験したことのない心重い中で、私たちは1年以上の生活をしています。心重いからこれを軽くするための娯楽、旅さえ強い制限を受けることになっています。日本人独特の周りの目が気になって思うような行動は取れないということがさらに私たちの心に負担をかけます。これに輪をかけるようにウェブ環境の発達が、相手を攻撃、中傷するということでさらに社会を暗くしてきています。

こういう中で、世界は大きく動き、政治、経済が不安定になってきていることも日々の生活で大きな影響を与えようとしています。

教会もまたこういう中で苦しんでいます。今、すべての生活において、私たちは苦しんでいます。

第一イザヤ、第二イザヤが生きた時代は国の存亡の時代でした。アッシリアに攻撃を受けてエルサレムは囲まれましたが、滅亡は避けられました。しかし、第二イザヤの時代、バビロニアが抬頭し、滅ぼされ、バビロン捕囚になってしまいました。

今日のイザヤ書は第一イザヤの聖書個所ですが、苦難に意味を見出した第二イザヤに類似した個所です。

苦難が、すべてが重く日々の生活を覆っていましたが、政治も、宗教も民の心を導くことはありませんでした。

民もまた自分たちがどうにか出来るものではない無力感でいました。こういう苦難に満ち、希望を失っている民に神の言葉を預かった預言者イザヤは、「 心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』  そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。」という神の言葉を民に取り次ぐのです。

確かに心おののくしかない自分がいた。また、私たちは新型コロナウィルス感染の脅威が日々あり、世界は大きく動き私たちの安全を脅かしています。だからといって私たちが何かが出来るわけがありません。心おののくしかない。

しかし、神は私たちに「 心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。」と言われます。

ユダの民は、バビロン捕囚の苦難を通して、苦難を書き留めることにより金では買えない富、旧約聖書を生んでいったのです。そして神の民としてユダヤ人は形成され、今もその生き方を決めています。「 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。」という恵みを神さまから与えられていきました。国が滅ぼされ捕囚時代は、約60年間でした。苦難の中で、耳は塞がれ、舌がもつれてどう生きてよいかという迷い、苦しんでいる時、神は働かれていたのです。

今、私たちは新型コロナウィルス感染によって、まさに捕らわれて囚人のように押し込まれています。神よ、沈黙しないでください。黙していないでください。静まっていないでください。詩編83:2

と神に叫ぶ自分がいます。しかし、それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、とあるように、私たちにイエスさまは来てくださっています。そして、耳が聞こえず舌の回らない人をこの人だけを群衆の中から連れ出したように多くの人から一人、私を連れ出してくださいます。神よ、沈黙しないでください。黙していないでください。静まっていないでくださいとおののいている私に天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったという奇跡を起こしてくださいます。私たちの目が閉ざされ、どう生きればよいのかとおののき恐がっている私たちに口のもつれをほどき、はっきりとどう生きれば良いかということを言葉もって表現できる人としてくださいます。

この新型コロナウィルス感染は、当分続き、私たちを疲れさせ、おののかせていくでしょう。しかし、捕囚の60年間の苦難の中で、目が開け、舌のもつれが解かれ、はっきりと話せるようになり神の言葉、旧約聖書の基本を作り、どんな時代でもどう生きるかをはっきりと確立したように当分続く苦難の中で、この苦難のときこそ意味が神から示されます。

確かにおののきが私たちを覆うでしょう。苦難の今、私たちは「エッファタ」、「開け」とあるイエスの言葉がかけられています。神が私たちに「 心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』  そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。」と言われた言葉にエフェッタ、開いていきましょう。雄々しく、恐れなく。

牧師室の小窓からのぞいてみると

アフガンのアメリカ軍撤退はまたアメリカの占領政策の失敗。今回はベトナム戦争の南ベトナム撤退を思い出す。あの時と同じある。アメリカの占領政策が成功したのは日本だけである。もっと、ここを勉強していたらまた違っただろう。歴史から学ばないのがアメリカ政治のように思える。まったくアメリカは西部劇のような世界だというのは言い過ぎだろうか。

園長・瞑想?迷走記

「互いに愛し合う」(9月のえんだより)

希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

ローマ人への信徒の手紙5:5

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネに福音書13:34

新型コロナ・ウィルスデルタ株の感染はいっこうに止まず、子どもにまで感染し、二学期の初め、文科省、都、区より矢継ぎ早に新型コロナ感染防止対策の通知書がきています。幼稚園も自由登園となりみなさんは心配されて動揺されていませんか。

イエスさまは、「わたしがあなたがたを愛した」と言われています。この危機にあっても神さまは私たちを愛していてくださいます。

フランシスコ教皇の「どんな危機も、よい知らせを秘めています。それを聞くには、心の耳を澄まして、聴くことを知らねばなりません」との言葉を思い出します。心の耳を澄まして、子どもらの声を聴いて、二学期も子どもに寄り添い、希望をもって子どもと、みなさんと互いに愛し合い教育・保育者として教育・保育を行っていきます。神さまの平安が皆さんの上にありますように。              (牧師・園長竹田 孝一)

日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:へブル12:3-13 詩篇23

信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。            ヘブル12:2

「あらゆる試練の中で、私たちはキリストにしっかりと目を留め、いつもそば近くいなければなりません。なぜなら、試練によってどれほど傷つけられようと、キリストは変わらなく前進し、勇気に満ちておられるからです。それゆえ、私たちも主の勇気と霊をいただいて、弱さの中にも強くあり、悩みの日にも打ち勝つことができるように祈らなければなりません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

同じように、もし逆境に耐え、キリストに近寄せられ、苦しみ、キリストの忍耐によってそれを切り抜けた人でなえれば、キリストの受難の意味を知り、それを正しく経験することはできません。この精神によってこそ、キリスト信仰の中心にきたり、キリストのように用いるべきかを学ぶのです。」1522年の説教

『マルティン・ルター日々のみことば』  鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

「試練にあって」

今、新型コロナウィルス感染拡大の中で、1年半を越え、生と死の日々を私たちは過ごしています。試練の中にいます。しかし、試練こそ、私たち信仰者が育まれていく時です。試練の時こそ、「あらゆる試練の中で、私たちはキリストにしっかりと目を留め、いつもそば近くいなければなりません」というルターの言葉を心に刻みつつ、キリストは私たちにしっかりと目を留め、いつもそばにいてくださる恵が燦燦と降り注いでいるのです。

キリストの恵に生かされ、弱さの中にあっても強められる私が今日も作られていきます。

祈り)新型コロナウィルス感染禍の試練の時、しっかりとキリストに目を留めて、乗り越えていけますように。

大森通信

宗教改革504年      1540年代

死へ向けて⑨  コロナ禍での

「プロテスタント的良い死」の模範のルターの死を通して学ぶことは、死は信仰者としての死に方である。そして、常日頃から私たちは準備をしておかなくてはいけないことである。

特にコロナ禍で、私たちは気づかされている。死は一人であるということである。しかし、信仰者にとって一人は一人でなく、死のここに神がおられるという神への信仰、信頼をもって迎えるということである。 ルカによる福音書23章46節にある十字架にかかり息を引きとった主・イエス・キリストも「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」のです。イエスさまが神を信頼して叫ばれた祈りに詩編31編6節「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。」を私たちも繰り返し唱え、心に刻みたい。

「キリストのみ」「恵みのみ」「聖書のみ」「信仰のみ」という信仰者としての信仰の態度をもって死を迎えるように死への備えと新しい命の準備をする時がコロナ禍に大切なことである。

参考文献:『ルターから今を考える』小田部進一 日本基督教団出版局
参考文献:『マルチン・ルター-生涯と信仰』徳善義和 教文館、
『ルターと死の問題 死への備えと新しいいのち』 石居正己 LITHON

 

(大森日記)
日)二回目のオンラインでの礼拝。自信がない。まだまだ改善していく必要がある。夜、T兄がYouTube配信を作ってくださる。近所の方に説教要旨を配布。
月)羽村の土地区画整理事業の役人の方と交渉。長い交渉になりそうだ。移転する金などない。
火)誕生日。同時に引退が近づく。
水)二学期を迎える準備。埃ぽっくなっている庭に雨。嬉しい。
木)コロナ感染がこどもにも感染するという緊張した二学期開始。自由登園で約10%の子が自主的に休む。先ずはおどおどしながら半日保育から。聖研のオンラインを開始。今を考えさせられる学び。
金)雨で一歩も教会を出ない。ZOOMでの幼稚園運営委員会の招待。ウェブを使い新たな生活の有り様をしていかなくては。
土)早朝より準備。