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風のように 9月12日

50:9 見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。             イザヤ50:9

8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。                                                                                                                                                                                                      マルコによる福音書8:27~ 30

【説教要旨】

聖書の民が神さまの御心を忘れ、危機に立たされたとき、民を激しい言葉で非難し、あるいは身近なたとえをもって忍耐強く諭し教育し続けたのが、各時代に生きた聖書の預言者であり、知者、賢者でした。ですから、イエスさまが「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちにお訪ねになったとき、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えたのです。『洗礼者ヨハネ』にしても『エリヤ』にしても『預言者の一人』です。

弟子たちを身近なたとえをもって忍耐強く諭し教育し続けているイエスさまの姿を預言者と人々は言っているのでしょう。それは、また同時に人々が危機に立たされていることを強く感じ、預言者を求めていたことではないでしょうか。

危機の中にいる。この危機の中で、身近なたとえをもって忍耐強く諭し教育し続けてくださるイエスさまが共にいて下さるのです。「お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/」と預言者イザヤは問い、闇の中を歩くときも、光のないときも主はいると言うのです。闇の中を歩き、光のないときも身近なたとえをもって忍耐強く諭し教育し続けているイエスさまがおられます。 主なる神はわたしの耳を開かれた。私たちは主が開いて下さっている耳をもって闇の中を歩き、光のないときも神のみ言葉が与えられています。

主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。

疲れた人とは、私です。疲れた私をみ言葉をもって呼び覚まし、朝ごとをもって耳を開き、み言葉をもって、忍耐強く諭し教育し続けて私たちをイエスさまは励ましてくださいます。預言者としての主は闇の中を歩くときも、光のないときもいてくださいます。

そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とペテロにイエスさまは問います。ペテロは「あなたは、メシアです。」と答えます。「メシア」、それは、「救い主」ということです。「見よ、主なる神が助けてくださる。」という私を助けてくださる方であるのです。

ここで、「 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」という不思議な言葉があります。弟子たちが当時のユダヤ人が待望していた政治的王としての救い主をあてはめていたこと、栄光の救い主です。イエスさまの救い主は、栄光の支配者であるというのではありません。受難と復活の救い主です。

イエスさまの十字架、受難物語でイエスさまが息を引き取られたとき「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」という物語が語られています。闇の中を歩き、光のないとき歩み、苦しみを担ってくださる方、『本当に、この人は神の子だった』、救い主です。

今、私たちは新型コロナウィルス感染によって、闇の中を歩き、光のないときを苦しむ受難の中に、『本当に、この人は神の子だった』と言われる救い主が私たちの苦しみを負って十字架にかかっていてくださっています。救い主は、ここにいます。 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。マルコによる福音書8:34~36

当分続く苦難の中で、この苦難、自分の十字架を背負っていきます。しかし、私の十字架に救い主がおられます。

見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。 お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。 見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。イザヤ書50:9~11

私たち十字架を担い、救い主イエスさまとともに、多くの人の苦しみを引き受けることをイエスさまから学び、「 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。」と祈っていきましょう。

牧師室の小窓からのぞいてみると

 

9・11、アメリカでの悲劇から20年、そして、ア

フガンへの報復としてのアメリカ軍の軍事行動、そして、撤退。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。           マタイによる福音書

イエスさまの言葉である。もっともホワイトハウスで祈り会が多かったブッシュ大統領のとき9・11、アメリカでの悲劇

が起きた。キリスト教国アメリカは、いったい何を学んだのだろうかとふと思う。

私もあの悲劇にあったなら報復を願う、そういう思いとイエスさまの言葉は私たちがどこに立つのかと言うことを考えさせられる。安易に絶対非暴力だと言い切ることは出来ない自分がいる。ただ、格差をなくすこと、平和を希求していくことに生み疲れず、汗をかいていくことを忘れずにいたい。

 

 

       園長・瞑想?迷走記

        

 どこの園でも「園だより」というものを出している。先日、「園だより」をめぐって、関わっている幼稚園で、1ページをめぐって篤い思いを園長から聞いて感心させられた。

通常はキリスト教保育連盟から出される聖句をもって、話を書く。そこの園長は、キリスト教保育連盟の聖句を安易に使うのでなく、これを基本として、自園の保育指針、そして月ごとの教育・保育内容を見て、内容を保護者に伝えられるように聖句を選び、決め、話を構成していくと話された。

「園だより」は、幼稚園からのメッセージの発信であるからこそ、この努力こそ怠っていけないと深く反省させられた。

     日毎の糧-ルターからの言葉

   聖書:Ⅱテモテ3:10-17 詩篇23

キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。Ⅱテモテ3:12

「だれも自分で十字架や苦しみを選んで、自らの上に負わせるべきではありません。ただ、十字架がきたならば、黙ってそれを受け、耐えしのぶべきです。また、苦しみを何か私たちのいさおとして考えてはなりません。苦しみが神のみこころに適うものであり、それによってキリストに似せられてくるということを知っておれば十分です。・・・・・・・・・・・・・・・最後に、キリスト者の苦しみは、他のあらゆる人たちの苦しみよりも尊く、すばらしいものです。キリストはご自身苦しみの中に身を投げ出され、それによってすべてのキリスト者の苦しみをきよめてくださったからです。・・・・・・・私たちはあらゆる苦しみをきよいものとして受け取らなければなりません。確かにそれはきよいのです。

                                             受難と十字架についての説教   「マルティン・ルター日々のみことば」 鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

 

「苦しみを受け取る」

私たちは誰しも喜んで十字架と苦しみを受け取りたくはありません。出来ればこれを避けたいというのが気持ちです。しかし、避けられない時もあります。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」とは、きついみ言葉です。

良寛さんの言葉があります。

災難にあう時節には、災難にてあうがよく候。 死ぬる時節には、死ぬがよく候。是はこれ、災難をのがるる妙法にて候

ただキリストに委ねて、身を置いていきましょう。

祈り)主・イエス・キリストの慈しみのうちにあることを感謝し、日々を励むことができますように。

 

大森通信

宗教改革504年      1540年代 

死へ向けて⑩

死の二日前に書かれたルターのメモがある。

五年間、牧夫や農夫であったのでなければ、ヴェルギリウスの牧歌や農耕詩を理解できまい。四十年間、支配の重要な位置についていたのでなければ、キケロの書簡は理解できまい。

百年間、預言者とともに教会を導いたのでなければ、聖書を十分に味わったとは思えない。なぜなら、一.洗礼のヨハネ、二.キリストの、三.使徒たちの奇跡は驚くほど強力なものだからである。

あなたは、神のこの詩を把握しようとしないで、ひざをかがめて彼らの足跡を拝するがよい。

私たちは(神の)乞食である。これはまことだ。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」マタイによる福音書5:3というイエスさまのお言葉を思い出す。「こころの貧しい人たち」を共同訳聖書は「神により頼む人」と訳している。まさにルターの生涯を表す言葉であった。

引用考文献:①『マルチン・ルター-生涯と信仰』徳善義和 教文館      参考文献:『ルターから今を考える』小田部進一 日本基督教団出版局、『ルターと死の問題 死への備えと新しいいのち』 石居正己 LITHON

(大森日記))コロナ禍での教会学校、礼拝、役員会など気がきでない。)PC環境の整っていない方に週報などを送る作業。手紙を添えて。)宮大工の西岡常一さんとの対談集を読み始める。祖父が宮大工であったのでつい気になる。)「園だより」の含蓄を聞き反省しきり。)教籍簿を移し替えていると課題が出てきた。70年史の年表、PCに記録されていたおかげでどうにか資料準備が出来そう。)今日も教籍の資料作り。やっと資料が出来た。根気がいる。ZOOMでの会議が多く、全国牧師会の役員会を忘れるところであった。)今週は思うように主日の準備が出来なった。3時に外で物音がしてそのまま起きて準備。