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永遠の命

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

                   エフェソ5:1-2

47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。

           ヨハネによる福音書6:47-48

【説教要旨】

政府は何の準備することなく、新型コロナウィルス患者の入院制限を決めて、中等症の入院が難しくなるということで、物議が交わされた。これは、医療現場の危機であり、またそれは社会の危機でもあり、自分の命の危機でもあるという状況がさらに深刻化したことになったことを私たちに示された。

 イエスさまは、「わたしは命のパンである。」と私たちに言われるとき、出エジプト記のマナの話が出てきます。エジプトを脱出して荒野をさまようイスラエル人は食べるものがなく命の危機に陥っていきました。神は、危機を解決するためにマナを降らせますが、しかし、蜜のように甘いマナに対して、イスラエル人はマナを見て、「マン・フー」、「これはなんだ」、あるいは「なんだ、こんなものは」と言ってモーセを責め、過去のエジプトでの生活の思い出にふけるだけで新しい現実に挑戦する意志を失ったまま荒野に滅びていったのです。そのことを忘れずにこの物語を語り継いでいったのです。

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「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」ヨハネ6:31-33

とイエスさまは言われます。モーセの物語を呼び起こしながら、モーセがどんなに偉大な人であっても、命をつなぐマナを与えたのは神であるということです。そして、モーセに与えられたマナ(パン)は、たとえ朽ちていくパンであっても、旅するイスラエル人の命を支えてパンでした。しかし、朽ちていく一時的なパンでなく、朽ちていかないパンをイエスさまは示されたのです。「天からのまことのパン」である「わたしは命のパンである。」という最大の贈り物、イエス・キリストそのものであるということです。

 神を信じて歩んできた人であっても、危機があります。それも命を失うほどの危機があります。今日の新型コロナウィルスの感染拡大にある私たちの命の危機です。

この危機にイエスは、私たちの只中に立って、「わたしは命のパンである。」と宣言されるのです。

確かに命の危機にあって、危機から逃れる物を神さまからいただきたいと心から思っています。新型コロナウィルスの治療薬、ワクチンなど必要です。それが命を守って危機から脱出させてくれます。しかし、それは一時的なものです。命の危機から一時的なものでなく永遠に守ってくださる命のパン、イエス・キリストが必要です。

しかし、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」。信仰、-イエス・キリストの中に、救いを見、彼の業の中に永遠の命を発見する-が必要であり、信じる者となれと勧められています。私たちのところに来て下さっているイエスさまご自身をいただくのです。

イエスさまご自身をいただくことは、確かにこの世からすれ

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ば、「マン・フー、これはなんだ、あるいは、なんだ、こんなものは」というものでしょう。しかし、信じる者にとってありがたいものです。イエスの許に行き、イエスを信じる者は、決して飢えることがなく、決して渇くことがない」と約束されています。聖書の歴史はそのことをずっと証してきました。

 「マン・フー、これはなんだ、あるいは、なんだ、こんなものは」とつぶやかず、神からいただいた「マナ」、イエス・キリストご自分自身と深くつながって、命の危機にあって恐怖におびえている私たちが永遠の命の内にあることを信じましょう。

 イエス・キリストとつながった椎名麟三は、

 「現在が堪えがたいからといって、

     希望のない者には改善など思いがけないことだ。」といっています。神に愛されている子供は永遠の命を生き、希望を失うことなく、堪え難い現実があっても滅びることなく、現実の命の危機を乗り越えて、共に歩む隣人へ愛を表していく勇気が起こるというのです。

 「今、求められているのはいかにしてその『私』という領域を超えていくかではないだろうか。『いのち』は個々の人間に宿っていながら同時に他者に開かれている。人は『いのち』があるからこそ、人を愛し、信頼し、慈しむ。

 おそらく、今、わたしたちが熟慮しなくてはならなのは、いかに他者を愛するかでなはない。それ以前に、自分の気が付かない場所で、いかに他者の愛を受け止めているかである。・・・・・・ 愛の使徒、それは私たちに存在の根源とは何かを教えてくれる「いのち」の使徒でもある。『いのち』とは尽きることのない愛の源泉にほかならないからである。」(『弱さの力』 若松英輔著より)

 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

 エフェソ5:1-2

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