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希望と失望の繰り返し日々の苦闘、しかし、ここから歴史の輝きが起こった。聖霊降臨後第21主日 10月17日

10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」                        マルコによる福音書10:42~45

【説教要旨】

 10月31日は「大森教会・宣教70年記念礼拝」です。また、この日は宗教改革記念日です。

 宗教改革三大文書の「キリスト者の自由」で、「信仰から主における愛と喜びが流れいで、愛から隣人に仕えようとする快活で喜ばしく自由な精神が流れ出る」と言う言葉があります。

 私たちの教会に愛を注いでくださったアメリカ・フィンランド人福音ルーテル教会の歴史、それはフィンランド人移民の歴史でもあります。

アメリカにおいてフィンランド人は、ミシガン州アッパー半島、コッパーカントリ地方の鉱山、林業、農業の地域に入っていった。初期は特に困難さを極めていった。彼らはこの地においてはよそ者であった。この国に関わり、適応していくことは、特に難しかった。彼らは、この国で儲けて、すぐに母国フィンランドにもどるという夢、思いを抱いて、この国で生活していた。・・・・・・ホームシックと孤独に苛まれていたので、道徳的な危機に陥り易かった。しばしば、悲劇の結果として、容易に酒の誘惑に負けていった。移民者同士の関係性が忘れ去られていった。特に宗教的につながりさえも壊されていった。あらゆるところで生活が荒んで行った。

しかし、彼らはしだいに、人はパンのみに生きるのではないと気づき始めた。魂の養い、神の支配による慰めが必要であった。そのとき、自発的に、日々の闇の内にあっても、自分を強くし、慰めを与えてくれる永遠の思いを求める渇望が彼らの魂の内に起きた。しかし、これらの思いは、いつも実現するとは限らないし、一瞬に阻まれることを経験した。死は色々な事をもたらした。体は、自分を痛めつけて土に休息のために横たわることが出来た。しかし、葬儀は馴染みのない言葉の他民族の牧師によってなされ、親しい友は、祝福されずに埋葬されたように思えた。これらすべてのことは深い悲しみをもたらした。                                                                日曜日がやってきた。他の民族の教会のベルは、神の民を招いたが、しかし、母国からはるか遠いフィンランドの人には何の喜びも鐘は運んでこなかった。自分たちの言葉で、自分たちの考えで神の言葉を聞くために主の家に共に集うことが出来たことを渇望した。

 彼らフィンランド移民は、ヤコブとヨハネように成功を求めてアメリカにやって来た。

イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

フィンランド移民者は、「わたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受け」て、苦難、十字架を与えられたのです。その苦悩と十字架を通して、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」というイエス・キリストの十字架を通して示された主における愛と喜びをいただいたのです。

子どもの時代に学んだことが心に湧いてきた。神への渇きと飢えに気づき、彼らは主の道を探り出し始めたこに永遠のものを慕う種が蒔かれた撒かれた魂と最初の地があった。・・・・コッパーカントリ地方―最も古くて、大きい移民地―は、フィンランド移民の精神を養い育てる場所となっていった。ここから教会の仕事が始まった。希望と失望の繰り返し日々の苦闘、しかし、ここから歴史の輝きが起こった。ここからアメリカ・フィンランド・福音ルーテル教会―スオミ・シノッドーが生まれ、神の招きに応える為に教会の働きをここから拡げっていった。(「私たちの教会 スオミ・シノッド-アメリカ・フィンランド・ルーテル教会の歴史 1880年~1945年」 アルフレッド ハッパネン著)

 信仰から主における愛と喜びが流れいで、愛から隣人に仕えようとする快活で喜ばしく自由な精神が流れ出て、同胞のために仕える人と変えられていき、同胞を越えて異邦の私たち日本人にまでも仕えるために人、物をささげてくださり、私たちに仕えてくださいました。

希望と失望の繰り返し日々の苦闘、苦難と十字架を負いつつ、神への渇きと飢えに気づき、主の道を探り出し始めたアメリカ・フィンランド人の信仰によって建てられている教会であることを私たちは忘れてはいけないし、忘れないことが、信仰から主における愛と喜びが流れいで、愛から隣人に仕えようとする快活で喜ばしく自由な精神が流れ出る教会、教会人とされていくのです。

宣教70年、一世代が消えて、新たな世代が生まれていくとき、これからも苦闘と苦難、つまり十字架を負っていくでしょうが、希望と失望の繰り返し日々の苦闘、しかし、ここから歴史の輝きが起こった。ここからアメリカ・フィンランド・福音ルーテル教会―スオミ・シノッドーが生まれ、神の招きに応える為に教会の働きをここから拡げっていったという隣人へ仕える宣教の業、十字架の神の愛から隣人に仕えようとする快活で喜ばしく自由な精神が流れ出る教会、一人一人が神の招きに応える為に教会の働きをここから拡げっていきましょう。

10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

牧師室の小窓からのぞいてみると

コロナ禍で生活環境が大きく変化したので小中学校の不登校のこどもが19万人を越え、過去最多になり、自殺も調査を始めて以来最高400人を超えたと報道があった。

 「登校拒否」と言われたころから教会はこの問題に取り組んできた。私も別府時代に数人の登校拒否の子どもたちに対応した。乗り越えて心療内科の医者になった者もいるし、いまだにどうしているか心配している子どももいる。

 東海教区の不登校の子どもたちの施設「こどもの家」にも関わってきた。私が初めて関わっていた時代とブラジルから帰国した以降の不登校の子どもたちは大きく変化し、登校拒否が不登校と名前が変わり、子どもひとりひとりの持つ心の課題はさらに複雑で、深い闇があり、子どもたちを苦しめている。

 不登校の課題と取り組んでいった経験と知識と場所など教会は資源を持っている。新しい動きは孤立する子どもを作らないようにする子ども食堂である。教会の資源を活用して、隣人にもっと仕えていくことのできる教会でありたい。

        園長・瞑想?迷走記 

隣接地の擁壁が壊れ、改修工事をするときにドングリの木を伐採せざるをえなかった。秋になると当たり前のように実を付け、庭に実を落とし、子どもたちを喜ばせたあの景色が今年ない。しかし、玄関口にどんぐりの子どもが育っている。十数年後、再び秋になるとどんぐりの実をつけてくれるだろう。

 どんぐりの木の良質の落ち葉は、良い腐葉土を作る。腐葉土はミミズを、虫の幼虫を育ててくれる。これを食べにカナヘビなどがやってくる。子どもたちは腐葉土を掘り、幼虫探し、そこでカナヘビや小動物と出会う。 四季折々の庭の植物の変化に子どもたちは自然に触れて、命を感じていく。小さな庭に命の営みがあり、子どもの命の営みがあって、成長していく。これからも庭にいろいろなドラマが繰り返されて、子どもたちは物語を作っていくだろう。さて、庭はどう変わっていくのだろうか。

日毎の糧-ルターからの言葉

 聖書:ヘブライ6:13-20             詩篇37:23-40

 6:13 神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、 6:14 「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。           ヘブライ6:13-14

                                     

    「クリュソトモスは言う。『使徒は前述の言葉をもって処刑をもっておびやかしたと同じように、彼はこれらの言葉によって、いつもなされる神の仕方を示し、報酬の与えられることを伝え慰めを与える。しかし、約束はいちはやくではなくて、あとになって実現されるのである』。従って、神に奉仕しようと思う者は、神のみこころとそのなさりかたとを知る必要がある」 『ルター著作集 第二集 10 第一コリント15章講解、ヘブル書1~11章講解』                        岸千年、徳善義和訳 聖文舎

約束はあとになって実現

 旧約、新約聖書から聖書は成り立っています。「約」とあるようにこれは、「契約」、「約束」です。神が私たち人間と契約を記したのが聖書といえるでしょう。

 「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓」という不思議な言葉に出合います。人は状況によっていとも簡単に契約を破ります。しかし、神は決して契約をどのような状況にあっても破らないということです。契約、私たちを祝福されるということです。しかし、しばしば、私たちは神さまが祝福されているのかという状況に追いやられ苦しみます。しかし、聖書は私たちが神に祝福されているかを記しています。

「『しかし、約束はいちはやくではなくて、あとになって実現されるのである』。従って、神に奉仕しようと思う者は、神のみこころとそのなさりかたとを知る必要がある」ということを身に着けたいものです。

祈り)主の祝福を堅く信じていくことができますように。

luther500th

大森通信

宗教改革504年      1540年代 

たとえ明日が終わりであってもリンゴの苗を植える。③

 近代は「私の良心は神の言葉に縛られているのです。私は取り消すことができないし、そうしようとも思いません。なぜなら、自分の良心に反して行動することは、確かなことでなく得策でないからです。私はこれ以外のことはできません。われ、ここに立つ。神よ、私を助けたまえ。アーメン」という「我、ここに立つ」ということから始まったのです。

 ルターの言う「我」です。近代というのは、どういう世界でしょうか。「我」、「エゴ」を強く意識して,個を確立した時代です。なによりも「我エゴ」が重要になってくるのです。カトリック教会にとって、ルターの強烈な我エゴは、組織をかく乱する我儘にしかみえなかったのでしょうか。そして、手を焼いた。近代は我エゴ、エゴイズムと向かい合っていくことでした。しかし、一方ではエゴ、個を何よりも大切にする人権思想がうまれてきました。

 エゴイズムを超えることをルターは「私の良心は神の言葉に縛られている」と言っているように良心、神の言葉に縛られて個は、制御されなければならないということを言っています。「キリスト者の自由」で、「自由な君主」、「奉仕する僕」ということでエゴイズムを超えることを示しています。

 参考文献:『マルチン・ルター-生涯と信仰』徳善義和 教文館

      『歴史の再発見 ルターと宗教改革』 江口再起 NHK出版

      『ルターを学ぶ人のために』 金子晴勇・江口再起編 世界思想社 

(大森日記))次期牧師を迎えるための住居購入のための臨時総会であった。今後も次期牧師を迎える準備の祈りを合わせていきたい。)教区長と懇談後、コロナ禍で苦闘した食堂をしている友人を励ますためにランチを食べに行く。よく頑張った。)運動会後の登園。みんなの顔が晴れ晴れしているように見える。)幼稚園の子どものために椎茸、舞茸栽培キットを購入。)Y兄と園庭の整備。芝張りをする。夜は聖書の学び、「ヘブライ的考え方からすれば、・・・ただ悪のない世界を夢見るよりも、悪が存在する現実の世界に負けないで生きるようにつとめるべき・・・」)幼稚園の礼拝、仕えることをみ言葉から聞く。