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信頼-胎の子も躍り上がり喜ぶ  12月9日

4 4あなたの挨拶の声をわたしが耳にしたとき、胎の子は喜んでおどりました。45主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょうか。                                                                     ルカによる福音書1:44,45

【説教要旨】

 マリアを大切にして、部屋にマリアの絵を飾っていたルターが「マグニフィカート(マリア讃歌)」を書いて今年は、500年になる。先週、ルター研究所の「マリア讃歌」の講演がありました。「マリア讃歌」の前の「マリアのエルサベツ訪問」の物語について次のようにルターは話しています。

「ルカはこの物語に特別の喜びを感じていたので、特に詳しい描写をしたようである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なぜなら、ルカはここで私たちも励まなければならない、三つのすばらしい徳を誇っているからである。第一に信仰、第二に、特に大きな気高い謙遜、第三に、人前での上品な慎み深い振舞いである。・・・・・・・・・・・・-ああ、信仰、信仰、おまえを受け入れるのは何と難しいことだろう。しかし、信じた者は極めて祝福された人である-なぜか。なぜなら、彼は尊い神の住まいであり宮殿だからであるとキリストは言われる。これに対して信じない者は悪魔の住家である。 愛する主よ、不信仰から私たちを守ってください。そして、私たちの信仰を強めてださい。」                        (『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館)。

 先週は、幸い新型コロナウィルス感染も小休止の中で、教会学校のクリスマス会を2年連続、簡略したもので、また、今日の教会のクリスマスもまた祝会のない2年連続の簡略したものにせざるおえないような状況は続いています。

「言ってみれば、問題の中を私たちは生き抜いているのです。しかし、それらのものを心に留めていきていくのではなく、本当に生きる力となるようなものを心に残す」と小副川牧師の言葉を紹介しました。

 「1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」とあるように、私たちはマリアを通して伝えられるのは、まず神が私たちに目を留められ、心に留められていれている存在であるということです。 神の目を留められた私は、「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、」という存在であるということです。たとえ、私たちがどんな状況であっても。 それは、「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じる」ということです。神のみ言葉を信じるということです。

1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 1:37 神にできないことは何一つない。」                               1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

信じるということで、マリアは私たちの証人、信仰の模範者なのです。「ルカはここで私たちも励まなければならない、三つのすばらしい徳を誇っているからである。第一に信仰、」ということです。しかし、信じるということは、「ああ、信仰、信仰、おまえを受け入れるのは何と難しいことだろう。」ということです。

「 1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」ということです。

 しかし、信じた者は、「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょうか。」という者とされるのです。「しかし、信じた者は極めて祝福された人である-なぜか。なぜなら、彼は尊い神の住まいであり宮殿だからであるとキリストは言われる。」とルターが言うように、マリアは、人間の住まいから、神の住まいを宮殿とされたのです。「信じた者は極めて祝福された人である」というのです。

 「言ってみれば、問題の中を私たちは生き抜いているのです。しかし、それらのものを心に留めていきていくのではなく、本当に生きる力となるようなものを心に残す」、生きる力、信仰、「1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」」と自分の運命としっかり向かい合い、第二に、特に大きな気高い謙遜、第三に、人前での上品な慎み深い振舞いであるという強い生き方が出来るのです。考えてみてください。マリアは学歴もなく、また十代の女子です。その女の子がきっぱりと大きな気高い謙遜、人前での上品な慎み深い振舞いが出来るのです。神の恵みを信じた者の姿です。マリアの信仰に、体内にいる洗礼者ヨハネは、マリアの挨拶の声を耳にしたとき、喜んでおどったのです。

 本当に生きる力となるようなものとは、信仰です。信仰を生きる、喜び踊るような生き方を私たちに与えられます。信仰、信仰、おまえを受け入れるのは何と難しいことだろう。しかし、信じた者は極めて祝福された人であるのです。

 新型コロナウィルス感染によって、世界は大きく変化し、問題の中を生き抜かなければなりません。生き辛い世界が私たちの前にあります。しかし、キリストがここに来られたクリスマスは、神が目を、心を私たちに留め、幸いの者とされます。クリスマスは神が偉大なことをなさことであり、憐みが代々に限りなく続く、幸いをくださった出来事です。これこそ本当の力であり、これを心に残し歩んでいきましょう。

牧師室の小窓からのぞいてみると

近くに学童保育を始める代表の方がきてくださる。企業を辞めて新しく事業を始めるという。挨拶の話の中で、トヨタの下請け企業と付き合いがあり、刈谷市によくいっていたと聞いた。厳しいトヨタを相手していた企業人が教育とはすごい決断である。それも前から私が狙っていた場所で学童保育である。

 どうして、私たちは、幼稚園を卒園した子どもたちのための学童保育を求められながら出来なかったのだろうか。教会の歴史の中で私たちは多くの教育、福祉に応えてきたはずではないだろうか。

誰もが好むような人々のいるところに、 人は押し寄せ、よく仕え、高みの恩恵に与ろうとするのである。だが、貧困、屈辱、苦難、困窮、不安などのある低いところを誰も覗きこもうとしない。誰もがそこから目をそむけ、恐れ逃げ出し、その人々を放っておき、彼らを助けてその味方になろうとする者は誰もいない。

 このルターの言葉は、私たちに手厳しく応えてくる。自分たちが自己保存的になるのでなく、他者に仕えることに心をくだき、実行していきたい。

 

    園長・瞑想?迷走記

 クリスマス・ページェントが終わると、幼稚園の二学期は終わる。子どもたちの劇を見ながら、新型コロナウィルス感染禍にあって、よくここまで守られてきたと思って感無量になる。

 第5波の時、毎日の緊張感、園だけは閉鎖したくないと思いつつ、どうしようも出来ない日々、次々と行事を変更していかなければならない連続。制限されたその中で、保育の質をどう上げていくかという努力。心配してもしかたないと思いつつも平常心ではいられない日々が今日で一旦、終わると思うと劇をしいた子どもたちと一緒に喜べる。

 キリストが来られた。この園に。 「クリスマスおめでとうございます」と心から喜べる。

日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:コロサイ1:15~20    詩篇113 

113:5 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き 113:6 なお、低く下って天と地を御覧になる。                 詩編113:5~6

ルターの言葉から

 神は至高で、神の上には誰もいないから、彼はご自分より上やご自分の横を見ることはお出来にならない。神と等しいものはいないから、彼は必然的にご自分自身とご自分の下を見なければならない。人が彼より低いところにいればいるほど、彼はますます人をよく御覧になる。                                                   しかし、この世の目や人の目は不合理なことをしている。彼らは自分の上しか見ないで、名誉、権力、富、学術、よい生活などにおいて高く上ることを望んでいる。そして、このような、誰もが好むような人々のいるところに、人は押し寄せ、よく仕え、高みの恩恵に与ろうとするのである。だが、貧困、屈辱、苦難、困窮、不安などのある低いところを誰も覗きこもうとしない。誰もがそこから目をそむけ、恐れ逃げ出し、その人々を放っておき、彼らを助けてその味方になろうとする者は誰もいない。人間の中には、無から何かを創り出そうとする創造主はいない。それゆえに、神のみが、このような低いところ、苦難と困窮の中に目を止めて顧みて下さり、どん底にいる人々と共にいてくださるのである。                                 (『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館)

低きを御覧になる

 クリスマスは、神さまが低きにまでくだりたまいて、私たち一人一人をご覧になったのです。そして、今も私たちを御覧になっています。

 私たちはこの神の目、イエス・キリストの目をかりて、苦難にいる人、困窮している人、どん底にいる人に目を止めて共に歩み出す一人一人でありたいとおもいます。

祈り)苦難と困窮の中に目を止めて顧みて下さり、どん底にいる人々と共に低きにいてくださる神に感謝できますように。

 

大森通信

「大森ルーテル教会70年史」7

 消えゆく神学校

 アメリカの諸派のルーテル教会が合同していく中で神学校が合同、廃止されていった。エルソン牧師、ルンド牧師が在籍したスオミ大学も神学部は廃止された。

これは、神学部運営のこともあるだろうが、神学教育を一つの場で行うことが最良の策と考えたと思う。

日本の諸派も合同するときやはり神学校を一つに纏めていった。東海福音ルーテル教会は、静岡聖書神学校を閉鎖し、この売却金を三鷹のルーテル神学大学の創設の資金の一部とした。一方、西日本ルーテル教会は神戸神学校を閉鎖されるのを嫌い、合同から離脱した。近畿ルーテル教会は、一年毎に三鷹、神戸と神学生を派遣した。日本ルーテル教団は、三鷹の神学校と共同経営を今も担っている。しかし、寮だけは別にしていた。

神学校を一つにするということも大切だし、自分たちの進行を継承していくという意味で神学校を守るも大切であると思う。しかし、今、考えてみると、もし、アメリカ・スオミ教会も合同しないで、よって、日本のスオミ・シノッド教会も合同しなかったら、神学校を創立していただろう。母国の敬虔な信仰を土台とした神学校が出来ていたかもしれない。どんな神学校が出来ていたか想像してみるのもおもしろい。  

(大森日記))今年もコロナ感染予防のために教会学校のクリスマス会は礼拝とプレゼントを渡すだけにした。人数制限は設けなかったが、出席者は少なかった。ルター研究所の「マリア讃歌」のオンラインでの講義は面白かった。夕礼拝後、ゆっくりと出来て話を聞くことができた。)園児を迎え、パンジーの苗を配置し、静岡に向かう。)今年、最後の聖書研究の準備をし、参加者にZOOM招待と添付で聖研の原稿を送る。便利になった。幼稚園のチャプレンの働きについて協議。幼稚園におけるチャプレンとは。)午前中はページェント。コロナ対策で年少組だけの観劇。中継のズームを効かし、子どもの表情が見える。技術の発展。)年中、年長の観劇。夜は最終、聖書を学ぶ会。終わりが近づく。)クリスマスイブの準備。幼稚園は終業式。年の瀬が近い。