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人に惑わされないように 11月14日礼拝

イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。                                   マルコによる福音書13:3~:6

【説教要旨】

コロナ禍で、時が重く遅く動いているように感じられていたが、気がつくと11月で教会の暦は終わります。終わりは確実に私たちにやってくるのです。

キリスト教の教理の中で終わりということが強調されています。イエスさまが再び来られて、世を裁くという再臨待望、終末信仰です。

鈴木浩牧師は終末について、次のように言っています。「『終末がいつ来るか』に関心を集中する人は、そのどちらかの(熱狂、無関心)態度に傾斜していくことになる。そして究極的には、一方は『熱狂』、他方は『無関心』になっていく。しかし、そのどちらも、終末に対する正しい態度ではない。・・・・熱狂は、冷静さを失うこと、すなわち、『見えなくなる』ことであり、無関心は『見えないこと』である。」

私たちの人生も確実に終わりがあります。11月は全聖徒の日があり、終わりを迎えた方々と繋がり、昨日もエルソン牧師のお墓で祈りをささげてきました。人生の終わりということを考えさせられる時でした。人生の終わりは、はっきりとイエスさまとお会いするときです。私たちの死をキリスト教的には「召天」と言いますが、この頃、「帰天」という言葉を使うこともあります。黙示録7:9~17に帰天の姿が記されてます。

この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、 大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、 こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」

終わりがある私たちは、ますます熱狂的に帰天を願うでしょう。そして、いつくるのかということを問いたくなる。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」と。肉体の死は突然としてきます。それは若い、年寄りは関係ありません。終わりは突然としてやってくるということを実感させたのは今回の新型コロナウィルス感染拡大でした。

終わりは突然とやってくる。だからこそ、終わりに無関心であって良いというわけではありません。無関心でその日その日を暮らせばよいという虚無的にあって良いはずはないと思います。私たちは自分の終わりについて、いつも目を覚まし、備えることです。 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。マルコ13:36、37

「目を覚ます」、目をどこに向けているかということです。それは、玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるその独り子をお与えになったほどに世を愛された神さまに目をむけることです。

「人に惑わされないように気をつけなさい。」という主のみ言葉のように、神さをひたすら信頼して歩むということです。

神は終わりを確実に私たちに玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれると約束されています。

この約束の中で、ルターが語ったように、「たとえ、明日世界が終わりであっても、それでも今日私はりんごの木を植える。」ということが、終わりのある人生を支える信仰者の態度だと思います。今、終わりを迎えようとしている人にも生きいきと支えます。

神へのゆるぎない信頼、信仰が、終わりへ向かう私たちに深い深い安心感を与えてくださいます。終わりに熱狂的にも、無関心にもならず、安心して終わりを迎える人とされています。

「それでも今日私はりんごの木を植える。」というように今日為すべきことを為し、希望をもって夢をもって歩めます。

イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」

さあ、終わりへ向かって、いつ終わりが来てもよいように神が備えてくださる道を共に歩みましょう。

牧師室の小窓からのぞいてみると

南太平洋の島国ツバルの外相が、海に膝まで浸かり、気候変動により、自国が水没する危機にあること、早急に地球温暖化の阻止の訴えをしました。それは、ツバルだけのことでなく地球全体のことである。地球温暖化は、人間の営みが起こしていることであり、その根底は人間の欲望から生まれている。いかに自分たちが欲望を抑えるかがためされている。しかし、これが一番、難しいことである。エゴイズムの克服、宗教の出番である。

 園長・瞑想?迷走記 

なぜ、当園で「英語教育」をしないかということです。ブラジルに住んで、上級日本語を教えた教師として、ドイツ語がまだ教会内で主流であったところを生きた牧師として感じたことは、生徒(成人)は、家庭で母国語(日本語、ドイツ語)を基礎として育ち、書き、聞く、話すといった能力を身に着け、母国語で深くものを考え、ポルトガル語で考えをしっかりと構築し、表現できているのを経験しました。英語教育をしないということは、まずは、幼児教育で遊びを通して、日本語を基礎として育ち聞く、話す、書くといった能力を身に着けた方が将来にとって良いと思っているからです。その後で英語を学んでも遅くないと思います。

「子どもたちの将来の『公民』たらしめるための基礎教育として、柳田はまず、国語教育を重視します。国語教育によって、子供たちに『相手の話す力』と、『相手に対して自分の考えを話す力』の双方を養うべきとしています。」①といわれるように、まずは国語基礎を幼稚園で学び、それが流暢な英語を話すことでなく、英語で自分の考えを表現できる国際人になると確信しています。

「国語教育」を幼稚園の遊びを通して、高めていくことが幼稚園の責務だと思っている。                      ①「連載 妖怪から民主主義へ ―裸足で散歩15」 西澤栄美子

日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:第一コリント15:24  詩篇13                                                                                                     次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。

ここに、二つの国のことが書かれています。ひとつはキリストがこの世において支配なさるものです。そこでは私たちの前にヴェールが引かれていて、キリストを目で見ることはできず、信じることが求められています。今ひとつの国では、信仰は必要でなく、目の前にキリストを見ます。今、宣教し、信じているものを、そのとき見るのです。                                      終わりの時、宣教と信仰はやみ、ヴェールは取さ去られ、私たちは輝いた姿をして永遠の祝福をもつ優しい天使たちと共に生きるようになります。・・・・・・・神の子が人となり、人のかたちをおとりなったことを信じ、バブテスマを受けている人はすでに天国にいるのです。      1544年の説教から

『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社を参考にして

 

イエス・キリストに向かって

  教会の暦は、終わりに向かっています。この時、終わりについてみ言葉が与えられます。終末です。 終末がいつくるとかどうかでなく、終わりに向かって私たちはどう生き続けるかです。

 私たちは、信じるということにおいて、「神の子が人となり、人のかたちをおとりなったことを信じ、バブテスマを受けている人はすでに天国にいるのです。」という存在とされているのです。すでに天国にいるのですという信仰、信頼の中で、私たちは、たとえ明日が終わりであっても、平安のうちに今日なすべきこと、宣教、愛のわざをなし続けるのです。

「たとえ、明日が終わりであっても今日、りんごの苗を植える」というルターの意図を汲んだ言葉のように淡々と終わりへ向かって歩めます。

祈り)キリスト保育が主にあって豊かに行われますように。保育者、職員の健康が守られますように。

 

大森通信

「大森ルーテル教会70年史」 

「大森ルーテル教会70年史」の編纂作業を2018年から始めて3年間かかり2021年の大森ルーテル教会70年記念礼拝に奉献し、完成した。この喜びを全日本福音ルーテル教会の方々と教会と関わってくださった方と分かち合いたくて送付した。

なぜ、記念誌を作るのかというと私たちは聖書と言う世界を生きるものだからだと私は思う。聖書は、神がどのように私たちに働かれたかということを記した歴史の書である。 一つの世代が終わりに近づき、新しい世代が生まれようとしているとき、70年が一つの区切りだったと思う。この70年に神が私たちと関わり、どう織りなしてくださったかということを記し、次へとつづけたっかたのである。

ある方から記念誌送付へのお礼と次の言葉をいただいた。「聖霊のお働きの記録。これからも続く恵みを感謝しつつ心に刻みます。」。その通りだとこの言葉に感謝し、心に刻んだ。

聖書に聖霊の働きによって、使徒の活動、言葉を記録した聖霊行伝と言われる「使徒行伝(今は「使徒言行録」)があるように、「大森ルーテル教会70年史」は、使徒として大森教会に派遣された、一人一人に働かれた聖霊の働きを記した使徒行伝だと思っている。

 

(大森日記))全聖徒の日、召天者と繋がる時を過ごす。礼拝後、少子化対策の役員会と教会員運営委員と合同の話し合い。)記念誌を発送し励ましの返信の言葉をいただく。)雨の中を納骨式。式が始まると空に晴れ間。神さまのお守りと感謝。)70年史原稿をファイル、保存作業。全国牧師会のオンラインでの学び。「コロナ禍で、コロナ禍後」について。良き学びのときになる。)早朝より説教の準備。碑文谷へ墓前の祈りへ行く。)エルソン牧師の墓前で祈りを捧ぐ。