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でこぼの道を平らに 12月5日

1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。       フィリピ信徒への手紙1:6

3:4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。 3:5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、 3:6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」                                              ルカによる福音書3:4-6

【説教要旨】

12月に入りました。新型コロナウィルス感染拡大によって、私たちは命の危険と向かい合いながら、2021年という道をやっとここまで歩んで来られたというのが本音ではないかと思います。私と言う道がひかれました。歩んだ道はまさに、谷があり、登り道であり、曲がり、でこぼこ道であったと感じていませんか。よくもここまで来たという思いがあります。

「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」というみ言葉を聞きます。道を整備していくには、目的があります。環状7号線が私たちの近くを通っていますが、これはオリンピックを円滑にするオリンピック道路として整備されました。道を整え、道筋をまっすぐにするということは、目的があります。

「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」という目的は何であるかということです。

それは、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」ということです。主の道を整え、/その道筋をまっすぐにすることは、神の救いを仰ぎ見るということです。

「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」と私たちに命令しながら、「谷はすべて埋められ」とあるように「られ」と受け身になっています。命令した神にとっては、人が埋めるのですから受け身となります。しかし、こうも取れるのではないでしょうか。私たちが命令を受けたのですが、神が埋めたので、私たちにとって、これは埋められたという受け身に取れるのではないでしょうか。

「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」という命令を私たちが実行できるほどの力を私たちはもっているでしょうか。今回の新型コロナウィルス感染拡大によって、人にはどうにもならないという苦しい現実の日々にぶつかり、普段、無意識に自分が頼っていた財産、能力、人間関係などがまったく新型コロナウィルスに対して何の助けにもならないということに気づかされたのではないでしょうか。先週の礼拝の聖書日課のみ言葉、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」とあるように、目を覚まして祈ることは、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」ということではないでしょうか。神さまが、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」ために、「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」という命令を自分自身に出し、「 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らにされた」ということではないでしょうか。私たちの道を整え、道筋をまっすぐすることに無力であっても、神がこの無力な私たちに目をかけてくださり、私たちを神の救いを仰ぎ見るように道を開いてくださいます。2021年も谷深く、道は上り坂で、でこぼこで、苦しい道を歩んできました。しかし、神が無関心でなく、神の憐みは、わたしたちに対する神の責務で、神は責任を感じ、目をかけてくださって共にここまで道を整えてくださいました。この神の働きにいつも目を覚まして祈りましょう。

確かに今の苦しい現実がすぐに解決するわけではありません。この苦しみは、希望を持てるような状況にはありません。しかし、善い業は始められ、やがてそれを完成されるであろうキリスト・イエスの計画の外にあるものではありません。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」ということが与えられています。私たちに目をかけてくださる神の働きのうちを共に歩む道にいることに目を覚ましている私たちはたとえそうでなくても、キリスト・イエスの日まで希望をもって、喜びをもって生かされていきます。

ルターは、「信仰とは、我々のうちに働く神の業であり、かつそうした神の恵みの業に対する我々の断固たる確信である」(ロマ書序文)と言っています。

同時に神のゆるぎない働きへの信頼感、生きることへの安心感を受動した私たちは、たとえ現実がそうでなくても隣人のために能動的に向かうのです。

私たちは、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」ために、「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」という命令を自分自身のものとでき、「 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らにされた」ことに奉仕するのです。他の人の苦しみ、救いも自分のものとして受け留めようとします。自己保存的になるのでなく、他者のために生きようとする自己変革が起きます。

「他の人の重荷を共に担おうとすればするほど、苦しさはわれわれの内に外に一層その重さを加えることでありましょう。しかし、その苦しみ、われわれの目から見ればどうにも絶望的に見える苦しい状況すらも、良い業をすでに始め、完成されるであろう方の計画に外にあるものではありません。」(「喜びに生きる」佐竹明著)

まだ、厳しい道が続くでしょう。しかし、私たちは自分だけでなく、皆が救いを仰ぎ見る見るために「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにする」ために苦労をしていきましょう。

牧師室の小窓からのぞいてみると

先日、携帯電話料金が跳ね上がったので、どうしたことか調べると妻の電話料金が上がっていた。今、妻が活動していることを継続するには、電話代の契約をこのままではどうしようもなく、ガラ携帯からスマホに替えるしかない。妻は物が何も問題もないのにこれを捨てるということに大いに抵抗する。スマホは5万、安くて2万5千円と聞くとこれにも抵抗を感じるらしい。確かにと思いつつも、時代はウェブ環境の大きな変化の中で、その変化に対応することを目的とし、発展としている限り順応しないと不便を強いられる。よっぽどに覚悟がいる。

ここは、妻への説得を諦めて、自分が不便を感じて、納得したとき替えるしかないと思った。すべてに時があるが、時流に抗う時もあるのだろう。それで良い。私自身もウェブ環境から解放されていきたいと思っているのも正直な気持ちだ。

    園長・瞑想?迷走記          

今も保育現場で現役で活躍し、多くの講演をしているAさんのことで、興味ある話を聞いた。

彼女のお母さんの祖父が大浦天主堂を作った大工棟梁の小山秀之進であるという。長崎奉行は外国人の建物工事は天草の大工に依頼することになっており、幕末の動乱期に、天草の「国民社 小山商会」の小山秀之進に頼んだ。彼は、グラバー邸、リンガー邸、オルト邸などの西洋住宅を作った。そして日本最初の西洋建築天主堂を作る。

ゴシック建築の大浦天主堂は、随所に日本の大工の技法を用いて、彼独自の日本の建築物として建てた。彼を評して、豪放磊落の人であったといわれてる。

彼女の保育の講演を聞いていて豪放磊落であり、保育への取り組みは、常に勉強し、難しいことに、新しいことに、時代に果敢に挑戦していく姿勢はここからでているのだろとふと思った。大浦天主堂の一つ一つの構造を見ながらまた、違う見方が出来るような気がしてきた。

日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:ローマ8:24,25  詩篇126 

      8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。                 8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。ローマ8:24,25

このことばは、心の最も深いところにある熱い思いを表すものとして理解しなければなりません。愛する者を慕う心から生まれる希望は、実現が遅れても、愛の炎をさらに燃やします。そして愛する者とそれを慕う心が、熱い希望によって、まさにひとつとなるのです。  エヴァンインズ訳 ローマ人への手紙講解         『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

今は見えなくても

  私たちはこの世の見えるもののみを見て暮らします。しかし、目で見えるものは、一時的で消えていくのです。しかし、現実は「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」のです。しかし、この共にはイエスさまも共にうめき、苦しみを味わってくださっています。そして、信仰者も体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

目には贖いの救いは目に見えませんが、イエスさまが来られて、私たちを救ってくださるということに信頼において、救いが確かなものとなるのです。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。私たちは神に信頼おくことによって、救いの希望が与えられ、うめきも、苦しみも負うことができます。

祈り)うめきと苦しみにある私たちを神が救ってくださるという希望をもって、忍耐し待ち望む目に見えぬ信仰をもって歩めますように。

大森通信

「大森ルーテル教会70年史」5

 

アメリカ・スオミ・ルーテル教会の総会資料に白石と言う神学生の名前が出てくる。白石郁夫牧師である。

「大森教会の記念誌届きました。ありがとうございます。実習させて頂いたのは、神学校の最終学年の半年でしたが、皆さんに温かく迎えて頂いたことを思い出します。徳弘先生の最初の年でした。」という70年のお祝いの葉書を下さったのは三浦知夫牧師である。多くの神学生が大森で教会生活をし、教会のために働てくれて、時代時代に私たちに影響を与えてくださった。また、私たちも神学生に影響を与えた。そういう相互の出会いが、もう一つの歴史として大切なものだと思う。

神学生もぐっと減り、今は制度も違って自由に神学生は教会を選べず、派遣教会が決まっているので、大森教会に来られなくなった。もう少し、神学生は色々な教会を選べる方が良いと思うのだが、神学校には教育をするという責任からそうはいかなくなったのだろう。

これからも神学生を温かく迎え、互いに信仰において、影響を与え合いたいものだ。献身者が起きて、宣教者が生まれるように祈っていきましょう。

(大森日記))不思議なことだが、教会学校の礼拝出席が少ないと通常礼拝の出席者も少ない。夕礼拝は、いつもより多い。午後は幼稚園の運営委員会、訪問。)幼稚園が始まる。子どもの声が響く。これも勇気をいただける。)祈りつつ、掃除をし、祈りつつ園児を迎える。十年以上続いている祈り。)羽村幼稚園だが、パソコンをもっていくと員アーネットを使い大森の仕事も出来る。すごい時代になった。)Y兄が園児の植えるチューリップのプランタの準備。土に触れ、成長を見守る機会をもった園児はきっと幸せだろう。二人でクリスマス電飾の修正作業。聖書の学び後、一人一人が祈る。)今日も電飾の修正をしているとお迎えのお父さんが手伝ってくれる。夜は長く垂らす電飾をF兄、T兄が直してくださっている。多くの方に今週も支えられている。感謝