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この世に属さない  風のように11月21日

イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」  そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」                                                                                                                                                                                                            ヨハネによる福音書18:36~38

説教要旨】

  今日で教会の暦は一年を閉じます。さて、皆さんは、新型コロナウィルス感染拡大の2021年を閉じるにあたりどのような思いでおられるのでしょうか。

 私たちは、死をいつも意識しつつ、新型コロナウィルス感染拡大にあって、一生懸命に感染予防に努めここまで来ました。同時に、新型コロナウィルス感染拡大は、私たちの世界、世を大きく変化させました。働き方にしても会社にいくのではなく、ICT(情報通信技術)を使って家で働く、あるいは他の施設で働く、教会の礼拝、聖書研究もICT(情報通信技術)を使い、オンライン礼拝が普通になってきました。

 世界は、世は、この一年、新型コロナウィルス感染拡大によって大きく変化し、私たちが今までもっていた生活の形を否応なしに変化させられ、悪戦苦闘した日々のなかで、今年を終わるに際して聞くみ言葉が今日の聖書日課、イエスさまへのピラトの尋問物語であります。

イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。

 「わたしの国は、この世には属していない。」というイエスさまが、わたしの国を支配するのは、イエスさまです。

 「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」とは、あんにイエスさまが、時がどうであれ、この世も支配されているということではないでしょうか。それは、いつも私たちとともにおられるということです。

 今は新型コロナウィルス感染拡大によって、この世は、日々死を背景に、大きく変化し、激動の日々であり、ポスト・コロナと言われつつも何も分からない、何も見えない闇夜のような世界であるかもしれない。しかし、イエスさまは、この世には属していないわたしの国をイエスさまが生きて、支配されているように、イエスさまを信じる私たちはイエスさまに支配され、生かされているということです。

 この世には属していないわたしの国を支配される方とはどんな方でしょうか。

 わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。

 「真理」とはとピラト同様に私たちも問います。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 真理は、イエス・キリストご自身であります。このイエス・キリストご自身である真理は、真理の方から自ら私たちへ身を向けて、私たちに対して語りかけてくださった、そういう真理です。「神は愛である。(第一ヨハネの手紙4:8,16)」というようにイエス・キリストは、神の愛を証しするために生まれ、この世に来られたのです。

 どんなに辛い、厳しい、激動の悪戦苦闘の日々の中であっても、この世には属していないイエスさまの国は、神の愛につらぬかれているのです。

 この世には属していないとイエスさまがいわれるとき、私たちがこの世を生きていることをまったく無視しているのではありません。この世を創造された神の意志に反して、被造物である世がすべてであるように考える生きざまに、この世が神と肩をならべるようなことを許されないということです。

わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」と言われるとき、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネによる福音書1:14」とあるようにこの世に来て下さり、この世が神と肩をならべるようなことを許されないが、この世は神の愛、真理に貫かれているということです。

 わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろうというこの世の力に生きるのでなくイエス・キリストその者自身、十字架の神の愛によって世を生きる。それこそが永遠の王キリストであるということを自ら私たちへ身を向けて、私たちに対して語りかけてくださっています。

 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」ヨハネ黙示録1:8

十字架におかかりなった主なるイエスさまが、永遠に私たちを支配されています。安心して、2021年の教会の暦を閉じて、安心して2022年の新しい教会の暦を歩んでいきましょう。

牧師室の小窓からのぞいてみると

 国会議員が一日100万円の報酬を貰おうがどうでも良い。                                                     何よりも、今、コロナ禍で苦しんでいる人をどうするかということ、地球温暖化による世界をどうするか、教育、世界の平和、国防・・・・・・という課題が山積している。山積する課題は何か。これを私たちに示し、これにどう取り組んでいくのかということを国会議員は政策論議をしてほしい。

 私たちが選挙で送りだした人が一日100万円の報酬を受けても誰も文句のいわれないような働きをすることこそ、今は急務ではないか。

 木を見て森を見ずということにうんざりしている。まずはこの国を、世界をどうするのか私たちが選んだ人は、寝ずに政策を議論し、行政を動かし政策を創造して欲しいと思う日々である。

 

        園長・瞑想?迷走記           

 戦後最低の出生率である2022年度の入園者は、減少し厳しくなるだろうと予想をし、準備をしてきた。

 保育園の過剰な建設、さらに新型コロナウィルス感染拡大によって、厳しくさせた。幼稚園のほとんどが定員割れを起こし、幼稚園運営を担う後継者のいない園は廃園している。大田区でも2園が廃園する。

 幼稚園の運営はこの世の子より賢くなければいけないが、なぜ、教会が幼稚園を運営していくかということをいつも根底にもっていないと世の厳しい風に吹き飛ばされる。

 時代がどうであれ、子どもたちの幸せを願うのは神の御心である。神は独り子をこの世に送ってくださって愛を示された。私たちがこの神に身を向けて、愛に応答することが幼稚園を教会の業とすることである。

 大森教会70年史を編纂しながら感じることは、幼稚園を宣教の業として、幾度も苦しい時を過ごしつつ、誠実に幼稚園の業を神の愛への応答であると続けてきたことである。

 運営以上に神の愛に応答しているかと言う教育・保育の内容を問うていくことが今、一番にすべきことだと思う。

日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:第一テサロニケ5:17  詩篇25 

                絶えず祈りなさい。 

    キリスト者がいるところには、本当に聖霊がいて、聖霊は絶えず祈っている。たとえ彼がいつも口を動かし言葉を発してはいなくても、心は動き鼓動している(ちょうど体の中で心臓が脈を打つように)。                                                                            「ああ愛する父よ、み名があがめられますように、みこころが私たちのうちにも成りますように」などと絶え間なくうめきながら。

 たとえそこに打撃や誘惑や苦難がふりかかって悩ましても、このようなうめきと祈りは口の動きと共にそれだけますます強くなる。だから、祈らないキリスト者を見つけることは、脈のない生きている人間を見つけるのと同様に不可能である。脈は人が眠っていても、まったく気にかけるず他のことをしていても、決して止まることなく常に動き、打ち続けているからである。

『慰めと励ましの言葉 マルティン・ルターによる一日一生』湯川郁子訳 徳善義和監修 教文館

祈れないとき

  打撃や誘惑や苦難がふりかかって自分を悩ましているとき、祈らなくてはと思っていても祈れないことがある。むしろ、神から遠ざかり祈らないでいるのかもしれない。しかし、次のルターの言葉はなんというなぐさめであろうか。

 キリスト者がいるところには、本当に聖霊がいて、聖霊は絶えず祈っている。たとえ彼がいつも口を動かし言葉を発してはいなくても、心は動き鼓動している。

 祈るという行為さえ聖霊の働きです。祈りは息ですといいます。息は聖霊、私たちに命をくださいます。祈りは息によって守られ、命となるのです。祈ることは生き続けることです。生きている限り、祈りは私たちに与えられていきます。絶えず祈りましょう。      

祈り)厳しい状況にあって、祈ることが聖霊によって起き、神の息で一人一人が元気になりますように。

大森通信

「大森ルーテル教会70年史」2

「大森ルーテル教会70年史」の記念誌、配布後、多くの方から電話、メール、手紙をいただいている。

 大森教会で青春期を教会生活し、神学校に行き、牧師となられた宇野正徳牧師より

 「この度は「大森ルーテル教会70年史」をお送りくださり感謝いたします。
 私自身にとっては大森教会の歴史や宣教のためにご奉仕された宣教師及び牧師、また教会を支えた教会員の皆さんを新たに知る機会となり大変に感謝しています。
ページをめくる毎に大森教会の歩みを深く想い起し、単に郷愁にひたるというよりも教会の現実の歩みがここにあるということを教えられました。」という感謝と温かいメッセージを    いただいた。                                                                                    記念誌を読むことは、「新たに知る」ということであり、「教会の現実の歩みがここにあるということを教えられ」ということでもある。そして新しい一歩へと進むことであると思う。

 実は編纂の時、「温故知新」と言う言葉を加えようとした。故きを温ねて新しきを知る機会となることが記念誌の目的のように私は思っていたからである。

 聖書は歴史書である。歴史を知ることが今を将来を決めていくことになることを聖書はおしえている。

(大森日記))いつもなら子どもも大人も一緒に礼拝をし、幼児祝福式をするのだが、今年は別々で教会学校だけで行った。また、教会に来ることがコロナの影響で来なくなり、出席者も少ない。ポストコロナの課題。)ホームページの更新だが、なかなか覚えきれない作業がある。)本を電車の中で読みだす。「園芸12ヶ月」。ユーモア、人生を楽しむ言葉で満ちている本。)午前中は大森、午後から羽村幼稚園で職員の聖研。クリスマスへ向けて。早い。)春へ向けて庭の整備をY兄とする。聖書を学ぶ会、「詩編」を始める。)子ども礼拝、掃除をしていると一日があっと過ぎる。)いつもなら主日の準備は金曜日で終わっているのだが、今週は土曜日までずれこんだ。こんな週もあるかな。