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「安心して、立つ」 風のように10月24日

31:9 彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き/流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの父となり/エフライムはわたしの長子となる。       エレミヤ31:9

10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。                                                                                                                                マルコによる福音書10:46~52

【説教要旨】                                                                                                                                    来週、10月31日は「大森教会・宣教70年記念礼拝」です。新型コロナ禍で、出席出来る方のみの記念礼拝となりますが、これも歴史の一ページです。70年は、世代交代が始まり、新たな一歩が始まる時であると思っています。時が変化するとき大切なことは温故知新です。

 そのために私はここ数年間、「風のように」に「アメリカ・フィンランド系福音ルーテル教会の歴史」、「大森教会の歴史」、「ルターの生涯―宗教改革の歴史」を載せました。2018年から4年間に渡って「宣教70年史 第11回編纂委員会」によって教会70年史の編纂がなされてきました。編纂委員会の資料作りで、写真の週報、総会記録の整理・ファイル、それによって、洗礼、転入、転出の教籍を1号から322号まで整えられました。特に教籍簿を整えられたということは、私にとって最大の恵みでした。その間、洗礼1号の木下貞子姉の納骨をルーテル教会の納骨堂に納めることが出来ました。教籍簿を整理しながらお一人お一人がどのような教会生活をされたのか思いをはせました。

バルティマイと名前が記されています。これは、「ティマイの子」ということです。どこに属しているかということです。教籍とは、私たち一人一人が、それぞれに名を持ちつつ、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜ぶ」(ルカ10:20)というように私たちが天に属し、「神の子」とされているということです。私たちは「神の子」なのです。

「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」とあります。「ダビデの子」とは、メシア、救い主を表します。天に属するものとされている私たちはどこに向かうのか。どこに祈りを向けるのか。救い主、イエス・キリストに向かい、祈りをささげる存在であるということです。

「わたしを憐れんでください。エレエーソン・メ」の叫びは、礼拝において「主よ、憐み給え」、「キリストよ、憐み給え」、「主よ、憐み給え」と繰り返し唱えることになるのです。キリエの唱える私たちは、バルティマイと同様に真剣にまた切実に、主に憐みを願っているのです。

神は、イエス・キリストは、盲人は、すぐ見えるようになったという大きな出来事を起こされました。

憐みを求める祈りと大きな出来事、奇跡が起きる間に、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」というイエスさまの言葉があります。「信仰」、「信頼」、「信念」、「真実」を意味します。イエスさまこそ私を癒すことができるというバルティマイの強い主への「信頼」、「信念」、「真実」が癒しに通じたのです。「6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。マルコ6:5―6」とあるようにイエスさまへの信仰のないところに大きな出来事、奇跡が起きないのです。

「行きなさい。」とは家に帰ってよかったのですが、バルティマイはなお道を進まれるイエスに従ったのです。イエス・キリストの弟子となったということです。

イエス・キリストに憐みを請い、信じ、敢えてイエス・キリストに従っていく、これは教籍簿に記されている一人一人であります。さらに、いえば、今なおも、キリストと繋がり、教会の歴史を作っている私たち一人一人は、籍に記されて、「行きなさい。」と家に帰ってよかったのですが、-多くの人がそうです-「なお道を進まれるイエスに従った。」者なのです。

いままでの70年もこれかも、私たち自身の人生において、目がふさがれ、見えなくことが起こるかもしれない。繰り返し憐みを神に求めていかなければならないかもしれない、教会もまた同じでしょう。しかし、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜ぶ者として教籍に記されている私たちは神の憐みをうけ、イエス・キリストこそ切実な憐みの求めにこたえてくださるという信仰(信頼)を人生に滲ませながら、イエス・キリストによって奇跡が起こされ、喜びがあたえられるのです。敢えて、「行きなさい。」と家に帰るのでなく、「なお道を進まれるイエスに従っ」ていく私たちに「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」という声が私たちに響きながら、今日と言う一歩を進みだします。教会の歴史を綴りながら、教籍を整えながら温故知新は、「行きなさい。」でなく、「なお道を進まれるイエスに従っ」ていた信仰があったということです。共に来週の宣教70年記念礼拝を守っていきましょう。

牧師室の小窓からのぞいてみると

高度に発展した社会があり、その情報を得、それを発信する高度の技術を私たちは持ったが、私たちが幸福になったかというとそうでもなく生き辛さを感じる社会になった。

選挙があり、自民、立憲の大きな党は、共に富の分配ということを公約に上げなければいけないほど富の格差がひろがり、精神的だけでなく、生活の具体的なところでも生き辛くなってきているということではないだろうか。高度に発展した社会で、その情報を得、それを発信する高度の技術もった一部の人に幸福はかたより、全ての人が幸福になるのではないということが見えてきた。

富の分配といえば北欧の福祉社会です。ここはルター派が多いということです。何かヒントがここにあるように思えます。

       園長・瞑想?迷走記          

 椎茸を数年前から育てている。昨年は椎茸の種駒された原木から育てたが数個しか出来ず、庭の陰に置き、雨が当たるところに置いていると忘れたころに立派な椎茸が出来てきて驚いた。こういうことを体験しながら子どもたちは学んでいく。

今年は椎茸が出来るということに力点を置き、椎茸栽培キットを購入した。一週間、数個の椎茸が出てきた。これはこれなりに面白いのだが、思いどおりに出来ずに、思っていなかったときにニョキっと出てきた意外性の方に味があるように思えるがどうであろうか。

現在は、椎茸も工場なようなところで、大量生産できる時代だから、キットを使って育てたのも、これも良い体験かもしれない。

さて、この椎茸のお味はいかがなものであろうか。楽しみである。栽培、自然観察、食育という教育プロセスは大切であるといつも頭においている。

 

日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:ローマ3:21-31  詩篇119:1-823-40

 3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。                                                                                                             ローマ3:21-31

それゆえ、このみことばの真理をみるとき、二つの事がわかります。ひとつは、地上においてどれほど信心深くても、罪はあなたがたのすべてのきよさを奪ってしまうということです。第二に、赦しはすべての罪と怒りを無にしますから、あなたがたの罪があなたがたをよみに投げ入れることはできないということです。                                                                                                                                                1529年の説教から                 『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

「器」

 「9:22 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、 9:23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。 9:24 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」   ローマ信徒への手紙9:22-24

 私たちは、器です。それは神の怒りの器でした。しかし、この怒りの器に盛られ、注がれたのは、神の恵、憐みでした。だから、私たちの器は憐みの器とされたのです。「ルターはまず第一に自らを神の恵が注がれるのを受ける器と感じていた」(『歴史の再発見 ルターと宗教改革』 江口再起 NHK出版)と言われるように、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる憐みの器とされ、そこに盛られた神の恵み、憐みを私たちはまた怒りの器にある者の立場になって、怒りの器へ注がなければいけません。これが伝道です。

祈り)器として神の憐みを隣人の器に注げますように。

 

luther500th

大森通信

宗教改革504年      1540年代 

たとえ明日が終わりであってもリンゴの苗を植える。④

 今、総選挙中です。与野党に共通するものは、富を分配するということです。それは裏返せば富の公平、格差拡がって是正しなければならないということです。

近代以降の課題は、富の格差をどう解決していくかということです。それは富める者が、貧しい人のことを考えられるかということです。

ルターは、宗教改革三大文書の「キリスト者の自由」で、「信仰から主における愛と喜びが流れいで、愛から隣人に仕えようとする快活で喜ばしく自由な精神が流れ出る」と言っています。

神の恵み、愛を受けた者は、愛から隣人に仕えようとする自由な精神が生まれるというのです。「恵みのみ」というとき、隣人のことを考え、自由な奉仕者となるというのです。それは、エゴイズムに陥ることなく、隣人と生きていく感性をもって、共に生きることを求めるということです。これこそ、格差社会を超えて、共に相手を労わりつつ、富の分配を起こすのです。

ルターは「エゴ」を確立しましたが、同時に「エゴ」を超えて神と人と共に生きることをも私たちに教えています。「共に」という感性を持つことが自分が救われることを示してくれました。

参考文献:『マルチン・ルター-生涯と信仰』徳善義和 教文館

『歴史の再発見 ルターと宗教改革』 江口再起 NHK出版

(大森日記))コロナ感染者、激減の中で教会学校、礼拝とどことなく安心した気持ちで過ごせたことは感謝である。)時代の変化を受けて教会はこの変化に応えていくために地区をどうするかということを牧師会で議論し、地区会で提案することになる。)早朝にH幼稚園の理事会に向けての準備に行く。)幼稚園の子どもの誕生日会。10月の創立に相応しく園章のクッキーを作ってくれた。感謝である。)裏庭に芝生を張り、夜は聖書の学び。そこにいつも共に歩んでくれる信仰の朋がいる感謝。)冷たい雨が降る。一雨一雨、冬が近づいてくるのだろう。すべてに時がある。)早朝から主日の準備。明日は信徒会。