1. HOME
  2. 風のように
  3. 「命につながる」風のように11月7日

「命につながる」風のように11月7日

41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。          ヨハネによる福音書11:41~44

【説教要旨】

 先週の主日は、教会・宣教70年の記念礼拝でした。教会創立以来、私たちが外の壁に世に対して伝えているはヨハネによる福音書、「永遠の命を得」というみ言葉です。 人生は旅です。今日、今、人生の旅を終えて、見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったとのみ言葉のように天におられる方を偲ぶために礼拝に招かれています。 旅を終えて、天に帰られた一人一人の旅は、またそれぞれの旅でした。 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時がありました。旅に生きる人に休息の時あるかもしれませんが、思わぬ出来事によって翻弄され、思うままには生きられないことも少なくないのです。

いや、むしろ、思わぬ出来事によって翻弄され、思うままには生きられないことの方が私たちの旅に起きます。 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない(伝道の書3:11)という私たちの旅があります。しかし、こういう日々の時の旅に私一人がいるのではありません。「神はすべてを時宜にかなうように造り」とあるように私たちの時の旅は、神が運んだのです。時を重ねる旅は神の旅でもあります。

 今日の聖書の日課は「ラザロの復活」という物語です。「 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。」とあるように、思わぬ出来事に翻弄されて、思うように生きらない旅のイエスさまがおられます。イエスさまの旅の途中に思わぬ出来事に翻弄されて、思うように生きらない兄弟ラザロを失ったマルタとマリアがいます。イエスさまも思うように生きらない旅をし、思うように生きらない旅に生きている私たちに共感し、共に生きていてくだり、私たちの人生の旅の時に神はおられるのです。だから「神はすべてを時宜にかなうように造り」という時の旅なのです。自分を守り続ける方がおられるのです。

  マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、・・・ イエスは涙を流された。

 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という苦しみの叫びは、私たちの叫びでもあります。私たちは、一人で苦しみを受け止めていません。十字架の苦しみを負われたイエスさまがおられます。

「心に憤りを覚え、興奮した・・・涙を流された。」、マルタ、マリアの苦しみをイエスさまは受け止めたられたのです。思うように生きらない旅に起きる私たちの苦しみ受け止めてくださる方がおられる旅が私たちの旅で、それは、私の旅にイエス・キリストがおられるということを信じることへの旅です。

 「永遠の命を得」ということです。ここでラザロは復活しますが、ラザロの命、いわゆる生命は死を経れば消えてしまいます。しかし、「永遠の命」という命は消えません。永遠の命は知ることでなく信じることだからです。「彼らに信じさせるためです。」とラザロの復活は、信じさせられるためであった。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という思わぬ出来事に翻弄されて、思うように生きらない私たちの旅に起こる苦しみの叫びは、一人でない、苦しみを受け止めてくださる方がいつもおられることを信じさせるためです。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書3:16

 信じるとは、神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛されたイエスさまに、神さまに繋がることです。この繋がりに「はい」という者こそ、永遠の命を得るのです。確かに肉体の命は消えていくでしょう。しかし、永遠の命とあるように命は死を経ても消えません。信仰の真実です。そして永遠の命を生きる一人一人は、生きている死者の存在を感じるのです。

 最初の宣教師が、「永遠の命を得」とわざわざ会堂の外壁に刻んだか。私たちが消えることのない命の中をいつもイエスと共に歩むことを信じ、自分を守り続ける方をマルタ、マリヤのように感じることを願ってではないでしょうか。

 今、私たちが全聖徒の日、ここにいるのは、神の前において、神に、イエスさまに繋がるのです。神に、イエスさまに繋がることこそが私たちの旅であり、天に帰られた子ども、母、父、夫、妻という人たちの歩んだ旅と繋がりを感じる場であり、時とされるのです。これからも大切にしていきましょう。

牧師室の小窓からのぞいてみると

衆議院選挙をどう捉えるか。今回は不思議な選挙であった。従来型の政治の大物が選挙で負けるという変化を求める兆しがあっても、常々、政治変化を声高に主張している保守の維新が勝ったのは、変化を望みつつ、変化を望まない保守であろうという気持ちの自己分裂しているもやもや選挙だったのかもしれない。もやもやの気持ちをどう受け止めるか教会の模索は始まった。

 園長・瞑想?迷走記         

 全国私立幼稚園園長研修会の一つのテーマに「超人口減少社会を見据えた地域創り(園)」とあるように2022年度の入園願書の受付で予想以上の速さで少子化が起こり、すべての園が縮小し、統合化、淘汰が進むということが起きている。一部を除きすべての園が、私たちの園でも例外ではなく、私たちの園は定員を満たしてきたが、初めて満たせなくなるということが起きた。そのことを見通して、園の運営を根本的に見なおしてきたが、変化の速さに追いつくに大変であるということである。

 神さまによって子どもに寄り添い、子どもたちを元気にする揺るがぬ基本のキリスト教教育保育の実践である。神による創造の出来事の恵みを教育・保育の具体的場で行うことである。

 保育内容より長時間保育があるかどうかで選んでくる保護者が増える中で、保護者と共に3年間、神さまに愛された子どもが中心となり、元気に創造豊かな者とされる旅を共に歩もうと覚悟した。 世に賢く、世の制度、物を利用し、教育・保育内容を伝えていく努力はさらに必要である。そのために、分析、これからの歩みについて文章化し、これを共有化することをまず始め、一つでもまず実践していくことにした。「隗より始めよ」である。

 時代の変化の中で、新しい挑戦が始まった。「神はすべてを時宜にかなうように造り」という日々になった。

日毎の糧-ルターからの言葉

聖書:第一テモテ6:16  詩篇94 

唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

 私たちは、神のみことばに従って自分自身を律すべきであって、深い神のみ旨を知ることはできません。パウロが言っているように(Ⅰテモテ4章)、だれも近づくことのできない光の中に住まわれる神の、高く、偉大で、聖なる秘密を求めようとしてはならないのです。私たちは、みそばに近づくことを赦してくださる神、人となり、十字架につきたもうたイエス・キリストに向かって進まねばなりません。その方の中に神の知恵のすべての宝が秘められています。私たちはイエス・キリストにおいて、知っていること、知らねばならぬことすべてを、豊かに享受するのです。                                                                ユストゥス・ヨナ訳 奴隷的意志                   『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社

イエス・キリストに向かって

  この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。       Ⅰテモテ6:17 

 「この世で富んでいる人々に」とは、それは私たち自身だと思います。私たちは、富は大きなものを、また幸福をもたらしてくれると疑いません。富があればという場面にいくつも出合います。私たちは、ここでいつも問われます。どこに私は立つのかという試練に出合います。

 人となり、十字架につきたもうたイエス・キリストに向かって進まねばなりません。その方の中に神の知恵のすべての宝が秘められています。 み言葉を信じ、み言葉に望みをおいて、世を生きていきましょう。        

祈り)キリスト保育が主にあって豊かに行われますように。保育者、職員の健康が守られますように。

 

大森通信

全聖徒の日

 ブラジルのサンレオポルドというルーテル教会の教育、福祉事業活動の中心の街で、数か月過ごした。大野神学生(後に牧師)が来て、「先生、今日はフィナードス(Finados)です」と行って私たちの部屋を訪問してきた。「フィナードス?」。「行きましょう」と言われ、付いていくと墓場ではないか。多くの人が来て、屋台まで出ていて賑やかであった。11月2日は、「フィナードス」という祝日、この日は日本の「お盆」のようなもので、この世を去った肉親や友人たちのために墓前に花を捧げ,彼らの魂に安らぎが与えられるように祈りにいくのである。ブラジルではカーニバルに負けない大きな祝日である。

 11月1日は、「全聖徒の日(Todos os Santos)」という日で教会で礼拝が行われる。 日本のお盆に合わせて世を去った方々を偲んだという経験を教団の教会でしたことはあるが、ルーテル教会では、こういう習慣はなく、私は初めてブラジルで経験し驚いた。帰国すると徐々に日本の教会でも定着し始め、今は普通のように11月1日に近い日曜日の礼拝を全聖徒記念日としている。

 11月1日、Y子姉夫妻が眠る青山墓地をかわきりに出来るだけ大森教会で召天された方のお墓でお祈りをするようにしている。今週も初代牧師・エルソン牧師の墓を訪ね、祈りをささげる。

 今、あたりまえであっても、昔はあたりまえではなかった。また、今、あたりまえであって、将来はあたりまえでなくなるということはよくあることである。

(大森日記))教会創立70年記念礼拝、コロナ禍の礼拝であったが神への感謝と次へと向かう備えが出来た落ち着いた静かな礼拝だったと思う。)お墓参り。急激な出生率の低さで入園児の減少を目の当たりに体験。凄い時代に突入したと思う。チャレンジを受ける。分析と今後の方針を作成し始める。)70年史記念誌の発送をY兄と始める。今週中にルーテル教会へ発送終了。)式典に来れなかった方々に記念誌を送る。午後からオンラインで地区会。地区、教会は時代にあってどう進むか。